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☆芹澤鴨◆0whPZJic.A
こんにちは(^-^)

茨城県西部の歴史でもお話しましょうかねぇ(笑

皆さんご存じ平将門の乱、藤原純友の乱と共に習った事あると思います。

桓武天皇の孫、高望王の血を引く坂東平氏の領地争いの内紛から始まった大乱です。

将門の父良将の領地は下総国北部豊田郡(坂東市、常総市、下妻市、八千代町一帯)と言われています、敵対する平貞盛の父国香は常陸国真壁郡石田(筑西市辺り)と言われています。

将門と貞盛は共に京で武官として働いていましたが、将門の父良将が亡くなって将門は帰国、良将の領地辺りは重要な軍事施設があったのか?国香と縁戚の源護が狙っていましたが、将門が排除しています。

将門と同盟関係だった平真樹(領地真壁、新治、筑波)が源護と度々領地争いの小競り合いを起こしていましたが、「自分と源護の仲裁を将門にして欲しい」と頼依頼、将門は「任せとけ」と平真樹の元へ向かいます。

途中源護の息子扶(たすく)の待ち伏せ攻撃をくらいましたが、見事に排除、更に鎮守府将軍平国香と源護を襲撃、国香邸を焼き討ち、源護も扶含む3人の息子を殺害します。

そして、朝廷の機関である常陸国府から刻印と鍵を略奪してしまって関東8国の王新皇を名乗り、朝敵となっていくのです。
  (802SO)
2020/05/10 11:50

☆芹澤鴨◆0whPZJic.A
話前後しますm(_ _)m

父国香死亡の報が、京に居た貞盛に届きます、貞盛は休暇を取り帰国、自宅で国香の遺体回収と逃げていた家族を探し出します。

貞盛は、「こちらにも非があるので、将門くんと仲直りしたい」と和睦に動こうとします。

けど、叔父の平良正、良兼に「父が殺されてんだから、貞盛は優しすぎるよ」と批判され諭され和睦はしませんでした。

その後、良正、良兼は幾度となく将門を狙うも失敗、反将門勢力は衰退していきます。

そんなある日、常陸国府の藤原維幾と常陸国人藤原玄明が一悶着起こし、玄明が将門を頼って来ます。

そして、匿っている将門に玄明の身柄引き渡しを常陸国府藤原維幾が要求して来ます。
  (802SO)
2020/05/10 17:14

☆芹澤鴨◆0whPZJic.A
そして、平将門は身柄引き渡しを拒否し、逆に常陸国府に捕縛の撤回を要求すると共に常陸国府に向けて挙兵します。

兵力では劣る将門、しかし常陸国府の占領に成功、更に上野国府も占領していきます。

そして、新皇宣言となる訳です、国府とは朝廷の機関でありここを攻め落としたのならば、朝廷に仇なすもの将門の戦いは単なる領地争いではなく朝廷に対する反逆、朝敵となった瞬間でした。

常陸国府を将門に襲撃させたのは、裏で貞盛が画策していたとの話があるようです。

さて、朝敵となった為、朝廷も軍を発しますけど、待ってましたとばかりに平盛と叔父の押領使藤原秀郷が将門討伐に動きます(押領使とは警察や軍事を司る役職です)

貞盛、秀郷連合軍は兵力3000〜4000、対する将門軍は兵を募るも朝敵になってしまったので、兵が集まらずわずか300だったようです。

そして、戦いが始まりましたが、圧倒的不利な将門軍、現在の八千代町から常総市、そして坂東市へと戦いが続きますが、坂東市あたりで矢で頭でしたか?射ぬかれ討ち死にします。

それが現在の坂東市国王神社辺りと云われています。

さて、討ち取った藤原秀郷と平貞盛。

まず、藤原秀郷は栄華を極めた奥州藤原氏に繋がっていきます、そして、平貞盛の四男に維衡が居ますが、この人が伊勢平氏の祖となりのちに平氏隆盛を極めた平清盛を排出するのです。

平将門は晒し首になった後、首が飛んで行ったなんて伝説があり、あちこち首塚がありますね。

長々とざっくりではありますが、将門の乱を書いてみましたm(_ _)m

誤字脱字がありましたらすみませんm(_ _)m
  (802SO)
2020/05/10 21:26

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