No.1041057
サンスポから
【二十歳のころ 手倉森誠(4)】ジーコの心得で指導者の今がある。
1991年、住友金属(住金)に入団したジーコは、パチンコに興じていた選手たちをつかまえに店にやってきて、厳しく言い放ったものだ。
「ギャンブルには手を出すな。自分のことしか考えず、自分さえもうかればいいと思っている人間はみっともない」
その輪の中に、20代前半の私もいた。ジーコはプロになろうとしているわれわれに、心得を教えてくれた。しかし、当時はそんなことは言われたくない、自分の金でギャンブルをして何が悪いと反発し、聞く耳を持たなかった。素直に忠告を聞いていれば、92年に解雇された後、競馬で無一文になることもなかっただろう。
チームで不遇だった私はつまらなそうな顔をしていて、周囲から人が離れていくのがわかった。しかし、思い返すと、手を差しのべてくれた人もいたのだ。ジーコは試合に出ていない者も、ファミリーの一員として公平に接してくれた。私はブラジル留学から戻ったばかりでポルトガル語を多少話せたこともあり、マコト、マコトとよく声をかけてもらった。
遠征で宿舎への到着が遅れ、冷たくなった食事を食べていると、「なぜそんなものを食べている」と、ジーコがみんなの頭をバシバシたたき始めたことがあった。選手は温かいものを食べなければいけないと、説教された。これからプロになるクラブ職員たちも、一流の指導に応えようと眠れない夜を過ごしていた。そんなとき、手のかかるようなことをしていた自分は、なんというバカ者か。
鹿島から戦力外を通告されたときも、マコトはいい選手だからサッカーを続けてほしいと、ジーコは期待してくれた。青森の実家で無為な時間を過ごしながら、そんなことを思い出していると、忘れていた感謝の気持ちがよみがえってきて、少しずつ運も向いてきた。同じ時期に鹿島から契約解除された弟の浩が、東北リーグのNEC山形(現J2山形)への移籍話を見つけてきた。両親に「オマエも一緒に行って、しっかり浩を入れ(推し)てこい」と言われて行くと、山形の強化部長が「兄貴もやれば」と誘ってくれたのだ。
山形で28歳まで現役を続け、チームは東北リーグから全国リーグ(2部相当)へ昇格した。Jリーグ元年の第1ステージで優勝した鹿島に比べるとささやかな成功だ。だが、ジーコに報告したらスコアまで知っていて、見てくれていたのかと感激したのを覚えている。
指導者になったいま、二十歳のころの自分を思い起こしながら若い選手に接している。かつて自分がそうだったように、期待されなくなると若者はくすぶってしまう。だから、選手を放っておくことはしない。
2016年リオデジャネイロ五輪を目指した選手には「君たちは谷間の世代と言われているけれど、一緒に谷から山へ登ろうぜ」と呼びかけた。谷底を知っている監督だから、彼らの気持ちを理解できた。若いころは失敗ばかりを重ねた。それは指導者になるために必要なことだったと、いまは思う。 (おわり)