125370☆ああ 2023/10/16 21:48 (iOS17.0)
ちのステーションホテルのホームページより
「信濃の国」は、明治32年(1899年)長野師範学校(現在の信州大学教育学部)の浅井洌先生が小学生向けに詞を作り、翌年同じ学校の音楽の北村季晴先生が作曲しました。最初は、運動会での女の子のダンス用にと頼まれて曲をつけた。
師範学校というのは、先生になる人が行く学校で、卒業生はここで習った「信濃の国」を、今度は、先生として各学校の生徒に教えることで広めていった。
長野県は広く、地域ごとに風土や文化が違うから、過去に何度も県を分けようという運動があった。
昭和23年に、県議会でこの問題が話し合われた時、聴衆から「信濃の国」の大合唱が起きた。
結局、県は分けなかった。歌声を聞いて、県を分けちゃいげないって思ったのかもしれない。
県民ならだれもが知っている「信濃の国」を県の歌にしようという気運が盛り上がり、昭和43年、県歌に制定された。
という事です。
浅井洌先生は、松本藩士出身でもともとは分県論賛成派でしたが長野に赴任した際、北信でもやはりあまりにも南北戦争が酷いのでなんとかしたい気持ちになり、師範学校附属長野小学校の校歌として初め作ったそうです。小学校の校歌にしては長野県全体を歌っていて壮大ですね。
大正天皇の行幸があった際に、この詩は素晴らしいと歌を書いた額を記念に持って帰られたので、学校では光栄に思って作曲をあらためて洋楽を学んだ北村先生にお願いし、今のリズミカルな名曲が出来上がったようです。
浅井洌先生が亡くなって10年後に分県の危機を救った逸話は長野県の微笑ましい歴史となりました。
信州人の心を一つにする信濃の国、私たちの誇りですね。