No.117196
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監督が向きあってくれるなら、ファンやサポーターもそれに向きあうべきと個人的には思うけど、当然いろんな人がいる。でも、もしその多様な人を「京都人」と一括りにされるなら(そんなことは不可能だと思うし、もう訂正されてもいるが)、
京都人的なメンタリティが(よくも悪くも)分かる一つエピソードを紹介しよう。
有名な宗旦狐のお話し。
江戸時代初期、相国寺に住む一匹の狐が(利休の孫の)千宗旦に化け、雲水と座禅を組んだり、和尚と碁をうったり、茶菓子を食い荒らしたりといういたずらを繰り返したという伝説がある。
悪さをするだけでなく、時に宗旦本人に劣らない茶の手前を披露したり、寺や豆腐屋の財政難を立て直したりというエピソードも残している。
が、ここで重要なポイントは京都の町の人が狐の正体に気づいていながらも、そのユーモラスなふるまいの趣を「面白い」と感じてつきあい続けた点。
撃ち殺すでもなく(撃ち殺したという伝承もあるそうだが、井戸に落ちて死んだとも、自ら死期を悟って茶会を開いたともされる)、
上品ぶって馬鹿にするでもなく、その興を本気で「楽しんだ」というところがいかにも京都人らしい。
現代に一枚岩的な京都人など存在しないと思うけど、こういう「それもまた一興」と、乗って遊ぶ遊興、しかも遊ぶなら真剣に(命がけで)遊ぶ美意識が個人的に好き。
(しかし裏を返せば、浅はかに上品ぶって馬鹿にする人よりさらに嫌味なのだろう。珍しいものを異質なものとして本気で楽しんでしまってるのだから)
京都人気質なんて関係ないと思うけど、もしそんなのがあるというならこの宗旦狐に対する気質をお勧めしたい。徹底的に遊ぼうという。