118☆sonic 2020/04/04 05:24 (MAR-LX2J)
<ヌーリとデ・ヨング>

 デ・ヨングが「バルセロナでプレーするために生まれてきた」のなら、バルセロナをアヤックスに置き換えることもできる。

 デ・ヨングが育ったのはヴィレムUだが、アヤックスのユース出身と言っても疑う人はいないだろう。それぐらいアヤックスのプレースタイルにフィットしていた。

 バルセロナのスタイルを確立したのはヨハン・クライフ監督である。クライフはアヤックスの選手で監督も務めた。バルサの現在のスタイルは、もともとのカタルーニャの土壌に相性のよかったアヤックス方式が融合したものだと言われるが、ほぼアヤックスからの輸入と考えていい。

 アヤックス式が最初にバルサに入ってきたのは、ビク・バッキンガム監督をアヤックスから招聘した1970年。英国人のバッキンガムが指揮を執ったのは1シーズンだけだが、翌年にはリヌス・ミケルス監督が跡を継いだ。言うまでもなくミケルスは、アヤックスでトータルフットボールをつくり上げた監督だ。

73年には、クライフが移籍してきてリーグタイトルを獲って「救世主」と呼ばれ、88年からはクライフが監督として現在のバルサの礎を築いた。

 カタルーニャのスタイルは「あった」と言う人も「そんなものはなかった」と言う人もいるが、アヤックス方式が導入されて50年も経っているのだから、アヤックスのサッカーはバルサに同化している。今ではアヤックスではなく、バルサのスタイルと認識されているぐらいだ。

 デ・ヨングがアヤックスに移籍してきた時、そこには同い年のアブドゥルハーク・ヌーリがいた。

 ヌーリは、まさにアヤックスが育てたアヤックスらしい選手であり、「バルセロナでプレーするために生まれてきた」という点ではデ・ヨング以上だったと思う。180cmセンチのデ・ヨングとは対照的に170cmと小柄なヌーリは、シャビの再来だった。ヌーリもメトロノームだが、デ・ヨングよりプレーエリアは前だろう。アヤックスの未来を背負って立つ逸材だった。

 しかし、ヌーリは2017年7月のブレーメン戦の最中に不整脈を発症し、そのまま再起不能となってしまった。

※意識不明で倒れ、重度の脳損傷を負ったヌーリは、長い昏睡状態から覚めて自宅療養をつづけている。この夏、クラブとの契約は解除となるが、アヤックスは生涯にわたる治療費を支払うことで合意している。

ヌーリとデ・ヨング、異なるタイプのメトロノームが揃ったアヤックスはどんなだっただろう。デ・ヨングはセルヒオ・ブスケツの後継者として、あるいはシャビやイニエスタの継承者として、バルサを支えていくに違いない。

 ただ、ヌーリとデ・ヨングが並ぶバルサが実現していたらと思わずにいられない。もはや再現不可能とも言われているシャビとイニエスタの時代だが、再現できるとしたらおそらくこのふたりだったはずなのだ。
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