146☆sonic 2020/06/08 23:45 (MAR-LX2J)
ペップとクライフ
ヨハン・クライフが68歳で亡くなったのは、今から4年前の3月24日だった。

 サッカーの歴史は、クライフ前とクライフ後でふたつに分けられる。

正確に言えば、「トータルフットボール出現前と出現後に分かれる」のだが、トータルフットボールをピッチ上で体現していたのがクライフであるのだから、「クライフ前とクライフ後」と言っても支障はないだろう。

 それはたとえばコペルニクスによって天動説から地動説に認識が転換したように、またニュートンやアインシュタインによって世界認識の在り方が劇的に変転したように、トータルフットボールはサッカーの在り方そのものを変えたのだった。

 もともとはリヌス・ミケルス(1965〜71年アヤックス監督、1974年オランダ代表監督)のアイディアであり、後を継いだステファン・コバチ(1971〜73年アヤックス監督)が完成させた。その意味ではクライフを加えた3人の共同作業であったともいえるが、クライフという存在なしにはあのような形で実現できなかったという意味で、クライフは象徴的な存在だった。彼のインスピレーションとイマジネーション、卓越したビジョンがあってはじめてトータルフットボールは命を吹き込まれたのだった。

 そのクライフを、ペップ・グアルディオラが語っている。

『フランス・フットボール』誌3月24日発売号でフィリップ・オクレール記者が書いているのは、ペップが絶対無二の師と仰ぐクライフへの賛辞の数々である。

『ザ・ガーディアン』紙のドン・マクリー記者の好意と特別な協力で、グアルディオラの語った内容の記事掲載が実現した。

 普段は聞くことができないペップの言葉を、読者の皆さんもじっくりと味わってほしい。

監修:田村修一

インタビューは受けないが、クライフなら語る。
 2016年にヨハン・クライフが逝去した数カ月後、ジャーナリストたちの小さなグループが彼の死後に出版された自伝『マイターン』の刊行を記念した集まりでロンドンのホテルに招待された。

 そこでジャーナリストたちを待っていたのは、彼らの予想を超えたゲストだった。クライフの最高の弟子であるペップ・グアルディオラその人で、インタビューは受けないという自身の原則に背いてまでペップは師のために駆けつけたのだった。

 この神への感謝とも言うべき彼の行為を「インタビュー」と厳密に定義できるかどうかはさておき、以下はグアルディオラがクライフについて語ったコメントである。

 ◇ ◇ ◇ ◇

 彼という存在なくしては、私がここにいることはなかった。

 バルセロナとバイエルン・ミュンヘンの後、マンチェスター・シティの監督になることができたのも、ひとえに彼のおかげであるのは間違いないし、それは良く分かっている。

 彼がやって来るまで、バルセロナには「サッカーのカテドラル(聖堂)」とでも言うべきものは存在しなかった。それが建てられたのは、礎石のひとつひとつをたった1人の人間、ヨハン・クライフという人間が積み上げたからだった。

 だからこそ彼は無二の存在であり、本当の意味で唯一無二だった。彼が成し遂げたすべてを私が成すのは不可能だ。
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