152☆sonic 2020/06/16 14:27 (MAR-LX2J)
サッカー名将列伝第2回 ヨハン・クライフ

革新的な戦術や魅力的なサッカー、無類の勝負強さで、見る者を熱くさせてきた、サッカー界の名将の仕事を紹介。第2回はボールを保持して攻めつづける、現在のバルセロナのサッカーの礎を築いたカリスマ、ヨハン・クライフ監督だ。

<2つ先の未来を行く>

 バルセロナでの監督業が終わり、指導者として第一線を退いた頃だ。TVのインタビューで、自分が率いたバルセロナの「ドリームチーム」の戦術を語り始めると、ヨハン・クライフはテーブルの上にあったフィールドを模した布(戦術布?)を手前に引き寄せた。緑色の布は手前から3分の1ほどがテーブルから垂れ下がってしまっている。そして、センターサークルにコマを1つ置き、「ここが最も重要だ」と話し始めた。

 説明する気がないのだ、自陣側の3分の1については。

 センターサークルに置かれたのは「4番」の選手である。ドリームチームの4番は"ペップ"ことジョゼップ・グアルディオラ(現マンチェスター・シティ監督)だった。Bチームから抜擢したペップは細身の技巧派で、当時このポジションでプレーする頑健なタイプとはまるで違っていた。

ペップをこの場所に置いたこと、フィールドの自陣3分の1について話す気さえなかったこと。この2つは、クライフ監督の考え方を端的に表している。

 1987−88シーズン、セリエAではアリゴ・サッキがミランの監督に就任し、いきなりリーグ優勝した。プレッシングという新戦術が脚光を浴びた。画期的なことが起きていると、世間がミランに注目し、強さの秘密を探ろうと"ミラノ詣で"が始まろうとしていた頃、クライフはまったく別の革命を進行させていた。

「2ステップス・フォワード」

 オランダのコーチにそう言われたことがある。クライフが指導者免許なしで監督を始めたことについて聞くと、「誰が彼にサッカーを教えるんだ?」「常に2歩先を歩んでいる」と言っていた。

 85年からアヤックスを率いたクライフ監督は3−4−3のフォーメーションを組み、全世界がプレッシングという守備戦術を知る前から、プレッシングを打ち破る方法を教えていた。たしかに1歩ではなく、2歩先を走っている。

 プレッシングが出現する前からプレッシング破りに着手していたのは矛盾しているようだが、クライフにとってそこは大きな問題ではなかったはずだ。

「人はボールより速く走れない」(クライフ)

 プレッシングだろうと何だろうと、ボールを正確に走らせれば失うことはない。プレッシングへの対抗策ではなく、いかなる守備に対しても攻撃が優位であるというスタイルをつくり始めていた。

サッキ監督率いるミランがチャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)を制した1988−89シーズン、クライフはバルセロナの監督に就任し、カップウィナーズカップ(欧州各国のカップ戦優勝クラブが争った大会。99年に終了)を獲った。

 ただ、この時点でのバルセロナはまだドリームチームではない。最初の2シーズンは国内リーグでも優勝には届かなかった。しかし、3シーズン目にリーグ優勝するとそこから4連覇。クラブ初のチャンピオンズカップ優勝も勝ちとり(1991−92シーズン)、ドリームチームが出現している。
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