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🏆 仮想バロンドール 〜1980年代・真の世界No.1プレーヤーたち〜
1980年代はサッカーのグローバル化が進む直前の時代。
当時のバロンドールは欧州出身選手のみが対象だったが、もしも現在と同じように国籍・所属リーグを問わず、世界中から選出されていたら?
以下は、現代的な評価基準で振り返る、真の「1980年代の世界No.1プレーヤー」たちの物語である。
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■ 1980年:ジーコ(ブラジル)
この年、リオの王・ジーコはフラメンゴで絶対的な存在となり、南米最強クラブの地位を築き始めた。
戦術眼、技術、ゴール嗅覚。そのすべてが揃った彼は、もし世界中が評価対象だったなら間違いなく最有力だった。
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■ 1981年:ジーコ(ブラジル)【2年連続】
フラメンゴはリバプールを破り、インターコンチネンタルカップを制覇。
ジーコはその中心で、ヨーロッパのファンにも衝撃を与えた。彼の名は、この年に世界的なレジェンドへと昇華した。
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■ 1982年:ディエゴ・マラドーナ(アルゼンチン)
イタリアW杯で脚光を浴びたのはパオロ・ロッシだったが、純粋なプレーヤーとしてのインパクトで言えば、マラドーナに軍配が上がる。
20代前半にしてすでに、彼は“サッカーの神の前兆”だった。
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■ 1983年:ジーコ(ブラジル)【3度目】
イタリアに渡ったジーコは、ウディネーゼで瞬く間にアイドルとなった。
欧州でも通用するどころか、なお光り輝いた。南米だけにとどまらない“世界の10番”がここに完成。
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■ 1984年:ミシェル・プラティニ(フランス)
この年はプラティニの年だった。EURO1984での支配的パフォーマンスと、ユベントスでの躍動。
司令塔として、リーダーとして、芸術家として…彼は文句なしの「世界No.1」に君臨した。
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■ 1985年:ミシェル・プラティニ(フランス)【2年連続】
ユベントスを率いてヨーロッパを制したプラティニは、この年も世界を魅了した。
そのプレースタイルは、まるで詩のようにピッチを支配した。
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■ 1986年:ディエゴ・マラドーナ(アルゼンチン)
この年はすべての議論を封じる。メキシコW杯。伝説の5人抜き。“神の手”。
マラドーナはこの年、サッカーを超えた存在になった。この年の世界No.1は唯一無二。
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■ 1987年:ディエゴ・マラドーナ(アルゼンチン)【2年連続】
ナポリをセリエA初優勝に導くという“奇跡”を成し遂げたマラドーナ。
ただの選手ではなく、都市の希望と信仰の象徴になった。世界最高選手の称号は、この年も彼のものだった。
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■ 1988年:ファン・バステン(オランダ)
EURO88で見せた伝説のボレー。ミランでの圧倒的な存在感。
フィジカルとテクニックを兼ね備えた現代的ストライカーの原型とも言える彼が、いよいよ世界の頂点に立った。
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■ 1989年:ファン・バステン【2年連続】
ACミランでの躍進を支えたファン・バステンは、1989年も世界最高峰の輝きを放ち続けた。
マラドーナがやや陰りを見せ始めた中で、欧州・世界の王として君臨。
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🌍 総まとめ:1980年代の真の王者たち
•ジーコ:3回受賞(1980, 1981, 1983)
•マラドーナ:3回受賞(1982, 1986, 1987)
•プラティニ:2回受賞(1984, 1985)
•ファン・バステン:2回受賞(1988, 1989)
これが、世界中が同じ尺度で見ていたら生まれていたバロンドールの歴史である。
南米と欧州がまだ拮抗していた80年代だからこそ、このバロンドールは、実に豊かで、多様で、華やかだ。